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「高野山上蔵院文書」について [史料紹介]

室町時代以降、高野山への登山、参拝が広く行われるようになったそうです。河野氏でも戦国末期に高野山上蔵院と関係を深め、伊予の人間は上蔵院を宿坊とし、これに反するものは罰する旨を河野弾正少弼通直が定めています[1]。このことから、伊予、特に河野氏と関係の深い地域では高野山上蔵院と関係を結んだ人々が多数存在しました。このため上蔵院には河野氏関連の文書類が多く残されており、これらは「高野山上蔵院文書」として扱われてきましたが、上蔵院が明治21年の火災で消失し、その原文書は長く行方がわからなくなっていたそうです。これまでは「南行雑録」[2]に記載された内容や、大正時代に書き写された内容が主に知られていましたが、近年、調査の結果その史料の一部が金剛三昧院に残されていることがわかり、改めて調査研究が行われています。

その成果として現在、伊予関連の文書については下記の報告書類で翻刻された内容を確認することができます。

  • 愛媛県教育委員会『しまなみ水軍浪漫のみち文化財調査報告書ー古文書編ー』2002年(以下『しまなみ報告書』)
  • 土居聡朋 山内治朋「資料紹介 高野山上蔵院文書について(上)(中)(下)」(愛媛県歴史文化博物館『研究紀要』11号〜13号、2006〜2008年)(以下『研究紀要』)
  • 川岡勉 編『高野山上蔵院文書の研究 : 中世伊予における高野山参詣と弘法大師信仰に関する基礎的研究』2009年(以下『高野山上蔵院文書の研究』)

『しまなみ報告書』では主に村上水軍関連の文書の写真と翻刻された内容が掲載されており、それ以外の文書および、文書の一覧が『研究紀要』にやはり同様の形態で掲載されています。また、『高野山上蔵院文書の研究』で、上記の調査後に確認されたものについて、その内容が翻刻され掲載されています。

この中には上蔵院とのやり取りが記された書状類の他、「河野家御過去帳」「河野弾正少弼通直御下衆少々記録」といったものが含まれています。「河野家御過去帳」には上蔵院へと供養依頼がなされた当時の人名が多数記録されており、貴重な史料となっています。しかし、文書類を含め河野氏と関係を深めた能島村上氏関連の名前が見当たらないことへの疑問や当該過去帳に近世以降も久留島氏の名前も記されており、併せて戦国時代に遡って久留島と表記されていることなどから近世以降に何らかの手が入っている可能性があり取扱いには注意が必要であると桑名洋一氏が指摘しています[3]。また、「河野弾正少弼通直御下衆少々記録」では河野氏の家臣団についても記録されています。この記録からは氏族の他に「正岡衆」「難波衆」「島衆」「下島衆」「志津川衆」「両村衆」といった形で構成されていたことが伺えます。

  1. 「高野山上蔵院文書」天文13年卯月14日 河野通直宿坊証文
  2. 「南行雑録」は水戸藩の佐々宗淳が「大日本史」編纂のため諸国を旅して各地の文書類の内容を書き写したもの
  3. 桑名洋一「「高野山過去帳」に見える伊予の戦国期領主」(『高野山上蔵院文書の研究』、2009年)

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島谷

河野家の過去帳は高野山龍泉院(現在)にもあります。
by 島谷 (2016-07-19 20:13) 

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