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伊予の戦国史ーはじめにー [総論]

はしがき


世の中、戦国ブーム、だそうです。ただ、その実態は、強烈で派手なイベントに彩られたドラマ、つまりは江戸時代に広まった軍記物をイメージした世界、のようにも思われます。戦国時代について、史学という学問としての見方からは新史料の発見だけではなく、史料の見直し再検討が進み、限界もあるとはいえ少しずつですが多くのことが明らかになっています。同時に広く流布していた通説の誤りも正されていて、その代表的なものが日本史の授業内容にも含まれていた「素浪人」北条早雲や長篠の戦いでの「鉄砲三段撃ち」といったものでしょう。


このブログでは戦国時代の伊予国(現在の愛媛県)について取り上げていくつもりですが、当時の伊予がどういう状態であったか、詳しい人もあまりいないように思います。もちろん河野氏をはじめとして滅亡あるいは衰亡した諸氏が多く、残された史料も決して多くはないことからそもそも不明な事柄が多いことも事実です。それでも湯築城の発掘、保存を一つの契機に他の地域と同様に、あるいはそれ以上に近年多くの研究がなされていると思うのですが、まだまだその内容が一般には知られていません。戦国時代を通じて四国と言えば長宗我部氏による四国統一が取り上げられる位ですが、そこにも虚像が存在します。それを含め、伊予の戦国時代、特に河野氏、村上氏の動静を中心に、時には中世、近世全般、あるいは四国、西国、日本全体に関わりのある話題を伝承と史実の境目にも注意しながら取り上げていくつもりです。


戦国伊予の概況


戦国時代の伊予には道後湯築城を本拠とした伊予守護の河野氏を中心に、芸予諸島の海上勢力、喜多郡の宇都宮氏、宇和郡の西園寺氏、新居、宇摩二郡の細川系国人勢力が割拠するという構図が見られました。これら諸勢力の間での小規模な紛争と隣国からの軍事的、政治的な介入があちらこちらで起こっていたことが伝えられていますが、河野氏にしても強力な戦国大名に成長することはできず伊予国内をまとめあげるだけの勢力は最後まで現れませんでした。


戦国時代の伊予が目立たない理由は二つ考えられます。一つは有名な武将、強大な勢力が居なかったこと、もう一つが著名で大規模な合戦があまり存在しないことではないでしょうか。しかし、大規模な合戦が少なかったことが戦国時代の伊予が平和な場所であったことにはつながりません。伊予は室町時代初期に南朝の有力拠点であったことや、瀬戸内海に面したその立地の重要性から細川氏、大内氏といった近隣の大勢力から圧力を受けがちな場所でもありました。それが守護職河野氏が伊予国内全ての軍事権を得られなかったことや内部での勢力争いにもつながり、むしろ一貫して安定の得られない土地であったと思われます。


軍記物に描かれるように、河野氏が内部での家督争いで衰退し、外敵の侵攻にさらされて長宗我部氏の下に屈して四国統一がなされた、というのが一般的なイメージであったように思われます。河野氏が弱小守護大名の一つでそれを越える勢力が生まれなかったという見方は一面では間違ってはいないと思いますが、実際には各国ごとに個別の事情があり、伊予では河野氏やその他の国人勢力が、足利幕府や毛利氏と関わりながらどのように権力を維持拡大しようとしていたのか、どのように生き延びを図ったのか、といったことが少しずつ明らかになりつつあります。


注目の人物


伊予の戦国時代には有名な武将がいないと書きました。その中で著名な人物を探すとすれば、能島村上氏の当主として瀬戸内海を制した村上武吉ということになるでしょう。武吉についてもその名前が随所にあがることになると思いますが、本ブログで特に注目する人物としては村上通康、宍戸景好の二人を挙げたいと思います。


来島氏としても知られる村上通康は河野氏の重臣と瀬戸内海有数の海上勢力の指導者という二つの顔を持って活躍しました。村上武吉の舅であり、直系子孫が大名として豊臣政権、徳川幕府と四国出身者としては唯一生き延び、長府藩主毛利秀元も外孫の一人であるといった家筋であるにも関わらず、その出自や家臣団さえ詳細が不明な点が現在でも多い不思議な存在です。


もう一人の宍戸景好は毛利氏の有力な一門衆となった宍戸氏の出身であり河野氏最後の当主となった通直から見て母方の従兄弟にあたります。明確には伊予の出身者とは言えませんが村上武吉の子景親の娘を妻とするなど、伊予との関わりが散見されています。


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