祢津の御姫尊と旗本祢津松平氏 [人物]
以前、宍戸景好の子供たちを紹介した際に、寄合旗本で信濃祢津に所領を持つ松平忠節に嫁いだ宍戸景好の娘についても取り上げました。 また、現在の祢津の地についても紹介を行いましたが、ここで改めて祢津の旗本松平氏と景好娘について整理してみます。
松平忠節
祢津を治めた旗本松平氏は久松氏の系統で、その初代忠節は松平忠良の庶長子として慶長10(1605)年に関宿で生まれます。 忠節は始め忠利と名乗り、従五位下采女正に叙せられたようです[1]。
祖父康元の跡を継いだ父忠良は元和2年に大垣へと移封されます。 その後、寛永元(1624)年、忠良の死により、その跡を忠良正室(酒井家次娘)の子、憲良が相続しますが、幼年のため小諸へと転封となりました。 この時、忠節に5000石が分知され、旗本として別家を建てたとのことです[2]。 ただし、分知の時期については諸説あるようで[3]、小諸城に忠節の屋敷があったとされ、「祢津曲輪」「松平采女殿」と書かれた屋敷などが小諸城の絵図に残ります[4]。
陣屋は当初東上田に置かれ、寛永7(1630)年までには祢津(現長野県東御市)へと移され[5]、以後祢津松平氏は5000石のまま幕末まで続きました。 忠節自身は貞享5(1688)年7月13日、84歳で亡くなり、法号を法雲院殿清岳日潤大居士、江戸谷中の了俒寺に葬られたとされます[6]。
了俒寺
了俒寺は忠節の母、日安尼の草庵を死後の明暦2(1656)年に忠節が寺としたもので、今も谷中の地に残ります。 山号の隨龍山は日安尼の法号、隨龍院殿正真日安大禅定尼から取られ、当初は日蓮宗の不受不施派に属しました[7]。 その境内には今も日安尼や忠節ら松平氏、あるいは忠節の長姉が嫁いだ旗本金田氏[8]の墓が存在しています[9]。
その法名から日安尼だけでなく忠節も日蓮宗に帰依していたものと考えられます。 また、金田氏は千葉一族の出自であり、忠節が生まれたのが下総関宿とされることを考えれば、日安尼も金田氏あるいは千葉一族に繋がる女性であったのかもしれません。
祢津の御姫尊と景好娘
一方、忠節の所領の中心であった祢津の地には、忠節夫人了照院に関する伝承を持つ巨石「御姫尊」(あるいは岩井堂とも)が今も残りますが、これも妙法信仰に関連する遺跡となります。 この「御姫尊」伝承こそが、景好娘の行方を知るキッカケとなるものでした。
これは、忠節の妻、了照院が難病となった際、霊石として同地の巨石を崇めたとするところに由来するものとなります。 巨石には釈迦如来、多宝如来の座像、題目の文字の他、了照院の法号「了照院殿月秀日普」の文字が彫られているとのことです。 この伝承より了照院もまた日蓮宗であったと考えてよいかと思います。
この「御姫尊」にまつわる話の筋には各種資料を見る限り詳細には異同があり、以下のようなバリエーションを確認できました。
- 忠節の後室、了照院は日蓮宗を篤く信仰しており、巨石側の一小仏寺に帰依していた。死にあたって石の側へ埋葬されることを望み、以後、腰から下の病への霊験があるとして信奉された。[10]
- 病に苦しむ了照院の夢の中に仏が現れ、祢津の地にある大石に仏を刻んで信ずるよう告げた。忠節の命で大石に仏が彫られ、それを信仰した了照院の病は快癒した。了照院の遺言により遺髪が石の下に埋めた。[11]
- 女児を産んだ後、婦人病に悩んでいた了照院は妙法に帰依し、岩井山中腹にある岩の脇に庵室を設け祈念を続けた結果、病が快癒した。これにより忠節も妙法へと帰依したが、忠節が江戸へ戻って後も了照院は祢津へとどまり、死後も多くの病婦を救うことを告げて亡くなった。[12]
- 病にあった了照院が神仏に祈願していたところ、「大石を探してそこに像を刻み祈念せよ」という枕元にたった仏のお告げを受けた。采女正が自領で石を探させ、像を彫り岩井堂に安置した。[13]
- 婦人病に苦しんだ了照院が霊夢により巨石に祈願したことで回復した。石の側の庵で他の女性をも救い、死後遺髪が石の下へと埋められた。[14]
- 婦人病に苦しんだ了照院は妙法へ帰依し、巨石の側の庵で妙法を唱え続けたところ、霊験で全快した。これにより忠節も妙法へと帰依した。その後、忠節が江戸へ戻った後も祢津へ留まり、死後も多くの病婦を救う事を遺言して亡くなった。[15]
旧祢津旗本領内には日蓮宗寺院はないことから、少なくともこれが久松氏に関わる遺跡であることは間違いないと言えそうです。 当初、小諸の日蓮宗寺院実大寺が管理していたようですが、その後、祢津の禅宗寺院定津院の管轄となったともされます[16]。
この伝承のいくつかで、了照院は毛利氏家臣宍戸但馬守の娘として紹介されます。 各種「宍戸系図」に宍戸但馬守景好の娘の嫁ぎ先として松平采女正とあること[ 系図C ]、兄、姉と思われる人物の生年から忠節の妻として不自然な点もないため、景好の娘(系図の位置からは末娘)が忠節に嫁いだと考えられます。 宍戸景好やその妻村上氏の周辺に日蓮宗との関連は特に見えません(むしろ景好子には真言宗、真宗の高僧となった2人が存在します)ので、この信仰も婚家との関係に起因するものと言えるのではないでしょうか。
御姫尊信仰
久松氏、特に忠節、了照院夫妻についての史料はなかなか目につかないのですが、信仰の対象としての「御姫尊」に着目するといくつかの情報を得る事ができました。
まず、一つは岩井堂「御姫尊」への代参講が存在していたというものです[17]。 先の記録の通り、下半身の病への利益があるものとして参拝されたもので、代参講自体は大正末から昭和にかけてのものであったとの事です。 また、別の記録では、岩井堂の堂宇ができたのは、明治に入ってからのことである、との記述がみられます[18]。 下半身の病に利益のあるものとして知られていたようですが、御姫尊への信仰が盛んになったのは或は明治以降であるとも考えられます。
もう一つ、竹内要人氏により昭和25年頃の岩井堂についてのパンフレットが紹介[19]されています。 この頃は上記の講など、参拝が盛んになされていたことが想定できそうです。 竹内氏の文自体は冒頭の紹介を除いてそのパンフレットを活字化した物と思われますが、その冒頭の文によれば縁起自体の記載は郷土史家柳沢一平氏によるものではないか、とされています。 明らかに齟齬のある記載も存在しますが、他の史料には少ない、忠節夫妻についての情報も記載されているため、その要点を下記に示します(※部分は筆者注)。
- 了照院は毛利綱広の家臣宍戸但馬守隆家の娘
- 承永(忠節の年齢等から寛永の誤記か※)3年、采女正22歳の時、17歳で結婚
- 居所は小諸城内采女屋敷にあったが、万治元年、祢津に屋敷を作り移転
- 岩井堂の地に采女正の父を弔う宝筐塔を建てる
- 了照院は46歳(没年から明らかに誤り※)で貞享2年10月20日死去、遺髪を石の下に埋め、法名を石に刻む
- 采女正は延宝8年、入道して意閑と号する
- 江戸時代は9月20日に縁日がたった
「但馬守隆家」については了照院の実父但馬守景好と景好の祖父安芸守隆家を混濁した記述とみることができます。 上に記載した年代の誤りの他、毛利綱広の治世など年代については多くの間違いが見られます。 ただし、祢津松平氏の家譜類あるいは詳細な系図、過去帳など何らかの資料が参照されているのではないかとも思われますが出典は不明です[20]。
この記載から婚姻を寛永3年とした場合、了照院の生まれを遡ると慶長15(1610)年となりますが、景好の末娘として見た場合には、生年として妥当な範囲にあります。
伝承の中で、もう一つ気になる部分は、了照院がどこで亡くなったかという点です。 忠節の祢津入部の有無についても不明であり、旗本の妻女にあたる了照院が実際に祢津の地へ赴いたことがあるのかどうかは不明と言えそうです。 ただし、寛永年間には各種規定が整備されつつある過渡期と言えること、幕府の直臣となる分知時期が不明なことなどから、当初の小諸在城や祢津への一時的な居住の可能性は否定できないのかもしれません。
久松氏を巡る姻戚関係
この景好娘の婚姻の背景を考えてみます。 忠節の祖父康元は家康の異父弟にあたり、康元、忠良親子の娘たちの多くが家康や秀忠の養女として諸大名に嫁ぎました。 この中で忠節と景好娘を結ぶ線としては、中村一氏の死後、毛利秀元へ再嫁した康元娘(忠節叔母)の存在が考えられます。
先に伝わる寛永3年は、直前2年の間に忠節の父忠良が死去、大垣から小諸へ移封(忠節が旗本として独立?)、毛利輝元の死去といった両家に関わる大きな事態が落ち着いたと時期と言えそうです。 忠節の婚姻時期としては遅いと思われますが、後室と記す資料もあり[21]、問題はなさそうです。 毛利本藩への秀元の影響力が強い状況にあったということも取り上げるべき事象でしょうか。 また、小諸藩主となった忠節の弟憲良の妻は永井尚政の娘ですが、その兄尚征の妻は秀元娘であり、秀元を基点に永井氏、久松氏のつながりがみえてきます。
祢津松平氏その後
先に述べたように松平氏は祢津の所領もそのまま幕末まで続きましたが、忠節、景好娘の血縁は早くに途絶えたようです。 2人の間の男子はいずれも早世しており、実娘の婿として明暦2(1656)年に後に老中を務める松平信綱の実弟、大河内金兵衛久綱の五男を迎え、忠勝を名乗らせています。 忠勝と忠節娘の間には後継者忠昌が生まれますが、忠昌もまた早世し、忠節娘も亡くなってしまったため、松平氏を継いだのは形原松平氏の民部少輔氏辰の子、忠盈でした[22]。
関係諸氏略系図
下記に関係諸氏の略系図を示します。 今のところ忠節へ嫁いだ景好娘の実母が村上氏であるかどうかを確認する術はないかと思われます。
宍戸隆家 |――元秀――景好―――了照院 ―五龍局 | | 毛利元就―隆元―輝元――――秀就 | ―元清 | | | |――――秀元| | | 村上通康―女子 | | | | ―女子 | | | | |――景親――女子| | 村上武吉 | | | | ―女子| | | 平岡房実―直房| | | 松平広忠 | ―女子 | |―徳川家康―――秀康―直政 |――男子(早世) | | | |――男子(早世) 於大の方 ――女子 | |――女子 |―松平康元――忠良――女子 | |――忠昌 久松俊勝 ―――――忠節=忠勝=忠盈 ―――――憲良 | ―女子 | 女子 | | 金田房能 | ―女子 永井直勝―尚政―尚征
注釈
- 『寛政重修諸家譜』巻第52 松平元久松(清和源氏義家流)(『寛政重修諸家譜』第1巻)
- 『東部町誌 歴史編 下』第四章 近世 第一節 支配 3 祢津旗本領
- 『上田小県誌 第二巻 歴史篇』「第一章 政治とその仕組み 第六節 祢津旗本領」によれば、『旧北佐久郡志』では憲良没年にあたる正保4(1648)年を分知としているようです。
- 『小諸市史 歴史篇(三)近世史』付図 小諸城下町復元図
- (2)に同じ
- (1)に同じ
- 了俒寺
- 忠良娘の一人を金田八左衛門房能が妻としていますが、この実母は日安尼ではなく忠良正室酒井氏であるようです。
- 現在忠節の墓は松平氏の数代を合わせて祀る墓として残ります。
- 『小県郡誌編纂資料 禰津村調査書』(複製本)(東御図書館所蔵、1917年)
- 竹内要人「信州祢津 岩井堂御姫尊縁起」(『上田盆地』18号、1979年)
- 『東部町誌 民俗編』第十章 口頭伝承 九 神仏 「祢津のお姫尊」(P411)
- 『長野県史 民俗編 第一巻(三)東信地方 ことばと伝承 』 第十二編 口頭伝承 第二章 伝説 2 石の伝説 「お姫さまの石」 (P472)
- 『東部町誌 歴史編 下』第五章 文化財と人物 第一節 文化財 23 祢津お姫尊巨石(P849)
- 『祢津地区「ふるさとを訪ねて」』西宮区 11 お姫尊と巨石(2009年、祢津活性化研究委員会)
- お題目塔調査票
- 酒井伭「郷土にあった代参講」(『上田盆地』16号、1973年)
- (10)に同じ
- (11)に同じ
- 『上田小県誌』の記述から白井逞勝氏所蔵「祢津領主松平氏系譜」が存在していることは確認できます。
- (10)に同じ
- (1)に同じ
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