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長岡景則の進退 [史料紹介]

2015年3月21日から6月28日まで、東京都文京区の 永青文庫美術館企画展示「細川家起請文の世界」 が開催されています[1]。 この展示は前年に熊本大学附属図書館で開催された 『貴重資料展・公開講演会(永青文庫セミナー)「誓いを立てる武士たち-細川家血判起請文の世界-」』 の東京開催のような位置づけでしょうか。

タイトルの通り起請文を中心とした展示ですが、その展示物のひとつに長岡景則に関連したものがあると聞いたこともあり実際に展示を見てきました。 会場では多数の起請文や関連書状が展示された濃厚なものでしたが、ここではその展示内容から長岡景則に絞った紹介をしてみたいと思います。

長岡景則の伺書

現在永青文庫に伝来している起請文約270通のうち、その40%が忠興の死までに提出されたものであり、これは三斎の隠居領と熊本の本藩の間での対立が影響したものとの展示解説がありました。 この背景からこの展示が細川家に伝来する起請文を紹介するというものであるだけでなく、結果、八代と熊本の間の対立を読み解く意味を持つものと見る事もできそうです。

ここで取り上げる長岡景則が記した文書は起請文ではありません。 正保2(1645)年の細川三斎(忠興)の死後、三斎の家老を務めていた景則が沼田延之、丹羽亀之允に宛て、暇を願い出た伺書[2]となっており、ここでの起請文が殿様への忠誠を誓う文書であるとするならば逆の意味をもつものとも解釈できます。年次の記載はありませんが、その内容と7月の記載から三斎の死の翌年、正保3年に比定されているようです。 内容としては冒頭から自身が妙解院(細川忠利)には仕えなかった理由を述べ三斎への忠誠を示すものとなっており、中でも例えとして、忠興の家臣が草履取り一人となったとしても、その草履取りを自身が務める覚悟であったとまで記しています。 時代的には未だ殉死者が出る時代の出来事であり、一方では三斎と忠利との関係性からもはや景則には熊本に留まる選択肢はなかったであろうとも言えますし、そこには単なる本心ではなく本藩の人間へ向けての皮肉的な意味も込められているのかもしれません。

実際に景則はこの後、肥後を離れることとなります。

景則の出自

長岡景則は村上景広の二男にあたり、系譜上でいえば能島村上氏の村上元吉、景親と又従兄弟という関係になります。 父景広の代に細川忠興に仕え、景広同様に重用され景則は長岡の姓も与えられ河内守を称しました。 忠興が中津への隠居後はその下にあり、細川家の肥後移封時にも忠興について八代へと移り、その死まで忠興の家老を務めていたようです。

能島村上氏が伝える「北畠正統系図」[3]では兄四郎兵衛が夭折したために家督を継いだとしています。 大坂の陣においても村上縫殿介の名で記録が残されており、戦後2000石を与えられている[4]ことから、細川氏に景広が仕える以前には出生していたと考えれそうです。 景則の兄四郎兵衛義盛についてはその妻を黒川元庸(康の誤りか、同系図では武吉娘を黒川元康妻と)娘としている点も注目されますがそれ以上の情報は得られません。

景広の妻としては四郎兵衛の母を椋梨弘平娘、景則の母を椋梨景良娘と記載がありますが、椋梨氏側の系譜の記載も少なく、この辺りの裏付けはありません。 ただ、同じく細川氏家臣となっていた椋梨半兵衛は忠利期の各種史料に名前の現れる人物ですが、以前にも 紹介した寛永5年の小倉藩「日帳」の記事[5] で、村上景広の年忌の行われる領内の今井だけではなく、その足で煩っている景則母の居る中津へ向かう事を願い出ていることから椋梨弘平、景良の親子から見ても近い縁者であると考えても自然ではあるでしょう。

「北畠正統系図」からのまとめ
      村上武満—次郎兵衛—女
   椋梨弘平—景良—女    |
       —女 |—————景則
        |—+———義盛
        | |   |
    —隆重—景広    |?
         黒川元康—女
村上隆勝—義雅    |
          —女
    —義忠—武吉—元吉
          —景親

先述の通り、忠興と忠利の軋轢の中、忠興の死後は細川家を去ったその後について先の系図では堀田正信の堪忍料を受けたとあります。 その後は大津で寓居、毛利綱広にも謁しその命によって新たな村上氏の本拠となっていた周防国大島郡屋代島へと移り、延宝2(1674)年にその地で亡くなったと伝えます。 その子孫も代々屋代島にあったようですが、堪忍料の支給は受けていたことを確認できます[6]。

また、先の系図では景則の妻を村上次郎兵衛武昌の娘としています。 同様に武昌は上関を支配した村上武満の子として記されていますが、武満自体に不明点が多く、同系図でも武満を能島初代義顕の子、義有の孫に位置づけられていますが、これでは年代的には微妙であるとも言えます。 この部分は村上家が提出した「譜録」時点では景広の子孫については記載がありますが義有以下の記述はなく、その後「北畠正統系図」成立までに記載されたものと考えられます[7]。

ただし、少なくともこの次郎兵衛についてはいくつかの情報を確認できます。 一つは慶長5年に西軍の一部隊として東海方面へ派遣された毛利氏の水軍の残した首注文です[8]。 この部隊は村上八郎左衛門尉(景広)と乃美孫兵衛尉(景継)によって指揮されていたようで、そのうちの景広指揮下に村上次郎兵衛の名前が確認できます。 また、細川家家臣にも村上次郎兵衛があったことが確認でき、その次郎兵衛の孫にあたる人物が能昌を名乗っていることからも[9]これが武昌系の村上家であると考えてよさそうです。

村上景広の移動

村上景広は先に紹介したとおり、慶長5年時点では毛利氏の舟手の一角を担っていました。 しかし、戦後の早い時期には豊前へ移封された細川家へと出仕したようです。

この経緯に関連しては景広の庶兄で能島村上本家の家老を務めていた 東吉種が出奔したことを以前にも紹介しました がこれを能島村上家では前後の状況について 「(東)右近丑ノ歳七月末走り申候前ニ村上八郎左衛門(景広)殿御立退、無程右近走り申候」 と記しており[10]、「丑ノ歳」が慶長6年であることからこれ以前に退去していたようです。 この他、毛利氏家臣として残留した清水景治は村上景広、成羽親成と共に「御暇被下」たものの願い出てとそのまま仕えたことを後年に記載しています[11]。

一方、所領が急拡大した細川家では多数の新参の武士を召し抱えており、景広がその一人であっただけではなく、景広と同時にあるいはその関係性から召し抱えられたと考えられる存在が多数あります。 実際、井上景貞の起請文[12]では「村八郎左、包(蔵丞カ)、三刀屋両三人」が毛利家臣の勧誘窓口となっていたことが伺えますが、このような経緯も経て少なくとも下記のような人物が景広同様に細川氏へと移っていることが確認できます。

名前    景広との関係など         その後の移動など
乃美主殿助 宗勝子、景広義弟         
村上孫右衛門吉継孫、景嘉義弟         後毛利氏→紀伊徳川氏
包久内蔵允 景広娘に内蔵介景忠妻とあり    後子孫は池田氏、尾張徳川氏
椋梨半兵衛 景広妻椋梨氏関係者か       忠利期の奉行人
東右近   景広庶兄、能島家老家東氏を継ぐ  
村上次郎兵衛景則舅。武満子か?        

この召抱について、景広分については不明ですが少なくとも村上景房、乃美景嘉については慶長6年10月の豊前国内での細川忠興からの宛行状が伝来しています[13]。 実際に彼らのうちの誰が細川氏へと召し抱えられる契機であったのかは不明ですが、その処遇をみても1万石を越える所領を得た景広への評価が最も高かったことは間違いなさそうです。

まとめ

能島村上氏の庶流村上景広の子、景則について紹介してみました。 細川忠興の”海賊”村上景広への高い評価は海上軍事力を期待してのものであったと考えてよいのでしょうが、その子景則が三斎が最後に最も信頼した家臣の一人となったことは興味深いところです。 その後半生は展示されている伺書にもあるとおり、三斎以外には仕えることもないままに過ごし、恐らくは今も尚、屋代島に眠っているものと思われます。

注釈

  1. 展示図録はないようですが、『永青文庫叢書 細川家文書 近世初期編』(吉川弘文館)に展示された文書の多くが収録されているようです。
  2. (正保3年)7月20日 長岡河内守伺書
  3. 「屋代島村上文書」204 北畠正統系図(『宮窪町史』)
  4. 『綿考輯録』巻十九(出水叢書(3)、『綿考輯録』3 忠興公 下)
  5. 小倉藩「日帳」寛永5年9月28日条(『福岡県史』近世資料編 細川小倉藩2)
  6. 系図上では景則の子のうち景任以下が景実、景道、景明、景勝と続いており、景任、景実の欄には堪忍料の記載があります。また『諸事少々控』(山口県文書館所蔵)に宝暦5~6(1756)年の記事として「村上縫殿病死、嫡子与七郎江引続御心付米百俵被下候事」という記事があり(山口県文書館サイト資料検索より)与七郎の名前から景道のことと思われます。
  7. 『村上家文書 』(山口県文書館所蔵)の近世文書に「村上縫殿覚書」(村上家60、元文5(1740)年1月、山口県文書館サイト資料検索より)が存在することからこの辺りに景広以来の事が記載されている可能性があるかと思います。
  8. 「毛利家文書」381 慶長5年9月12日 尾張国野間内海合戦首注文(『大日本古文書 家わけ 毛利家文書』)
  9. 新・肥後細川藩侍帳【む】の部によれば村上市右衛門家(南東41-21)の初代が市郎兵衛、2代才十郎が550石、4代に三郎大夫・能昌の名前が見えます。
  10. 「宮窪村上文書」43 能島家家頼分限帳(『今治市村上水軍博物館保管 村上家文書調査報告書』愛媛県今治市教育委員会)
  11. 「毛利家文書」1272 (年不詳)8月20日 清水景治言上書
  12. 「毛利家文書」1202 10月10日 井上景貞起請文 (『大日本古文書 家わけ 毛利家文書』)
  13. 「村上小四郎蔵文書」4 細川忠興知行宛行状写(慶長6年10月)(愛媛県教育委員会『しまなみ水軍浪漫のみち文化財調査報告書』古文書編、2002年)、「乃美文書」近世60 知行宛行状(慶長6年10月)、近世61 知行方目録(慶長6年10月)(熊本市歴史文書資料室の複写で確認)

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コメントの受付は締め切りました
むーみん

村上景広と村上景則親子も波瀾万丈な人生のようですね。

ただ、能島村上系図は編纂年代により、微妙に齟齬が発生しており、いづれも二次史料なので正誤はよく分りません。

takuboさんの参考史料で注釈に明記されている、村上家の人物記は
書かれた古い順に見ますと

①「野嶋家家頼分限帳」は1633年以降に元書に行く衛の伝聞を覚書きとして書かれたものですので、「・・・・と聞いています」の表現が多いのですが、史実に近いものなので信頼性はそこそこあるものと見られます。

②萩藩譜録「村上図書元敬」差出、(1720年~1726年の間)
に毛利吉元に差し出した自己申告による系図。

③「北畠正統系図」明治期に村上家21代宗家当主で養子の村上兼助の手
による編纂系図。

時代が下がるにつれ齟齬が増えていきます。この3本とも二次史料ですので
史料としての信頼性は薄くなります。


以上を踏まえて景広と景則を見て行きたいと思いますが、不明な点が多いので史実か否かは断定できません。

●村上景広  (1554~1627.10/1)

 少輔五郎、弾正 八郎左衛門
 属隆景公承継於父隆重采地八千貫 居干備中国加曾岡城 隆景公賜景字
 隆景公逝去後慶長六年細川越中守忠興招往仕賜一万石 寛永四年十月
 朔日七十三歳而死 母村上義任女 妻椋梨冶部少輔弘平女

とあり、父、隆重の八千貫を相続し嫡男であることが分ります。細川忠興に慶長6年に招かれ、終身 細川家に仕えていたようです。

庶兄に東吉種がいますが、この兄弟家はもともとアンチ武吉であったようで、
村上宗家を村上隆勝の次男の子、武吉に取られるのを面白くなかったよです。武吉家が衰えるや、細川家に仕官し、信頼していた妾の子、東吉種が
財産を大船(安宅)に載せて主力メンバー35人とともに逃亡したことは能島村上宗家からすれが怒り心頭は発したとされます。
同じ慶長6年の離脱の話ですが、景広離脱は一族納得の上と思われ、どの文書も細川の招きによりとし、主家の毛利家の許可があったものと思われます。
東吉種は敵前逃亡そのもので、しかも当主元吉を殺した伊予加藤家への出仕
であるから許せるものではないでしょう。


村上(長岡)景則 (1594~1674.1/24)

千寿 縫殿介 河内守 内匠正 広世 (景利共)
兄四郎兵衛依夭折而受景広采地一万石 加二千石而為壱萬弐千石
後又加封一千石都而領一万三千石 賜長岡氏号 長岡内匠正列干門客
他日有故辞細川家而寓堀田上総介正信 其後正信有故雖有謫信州之事
不背其罪遁干江州大津 其時改長岡復村上 剃髪号村上広世 綱広公
御参勤御帰国之時於大津駅奉謁見 寛文四年有当来御分国之命 依之
寓居村上就武領地周防大島郡八代村 延宝二年正月二四日八十歳而死
母 椋梨弘平女 妻 村上次郎兵衛武昌女


とあり 兄の四郎兵衛(義盛)が若死にしたから景広の采地1万石を継ぎ
更に2千石が加えられ一万二千石になったが後日また千石加えられ一万三千
石となりました。長岡の氏を賜った。ある事情があって細川家を辞し堀田正信
の所でやっかいになり、その後正信があることで責められ信州の事となりました。その罪を否定しなかったので滋賀の大津に逃げてきて住みつきました。
その時に長岡を改め村上に復しました。出家して村上広世と名乗りました。
(毛利)綱広公が参勤交代の帰り道は大津駅で謁見されました。寛文4年に
ご分国の命で村上就武の領地周防大島郡八代(屋代)村へ移り住みました。
延宝2年1月24日に80歳で亡くなりました。母は椋梨弘平女 妻村上次郎
兵衛武昌女 と読める。

この文章は中々そそられる。兄義盛が若死にしたとされるが、妻があるから
20前後の死亡なのであろう。この妻は黒川五右衛門元康女とあるから
なんのことはない、最近話題となった【村上海賊の娘】(景)の娘となってしまう
から村上元吉の姪となる。【小説は景親の姉としますが系図上は妹です】

また一万三千石の小名まで出世してそれを棒に振ってまで細川家を辞することがよく分らない。どうもバックに毛利家があって徳川の重臣堀田正信へ
送りこんだ可能性がある。堀田正信は下総佐倉12万石の大名であり村上
景則ごときがのこのこと出かけていって居候ができるものではない。

正信が責められたのは万治3年(1660)10月8日の幕政批判の上書を出して無断で佐倉に帰城したことを指すのであろう。「信州之事」とはこの責めを
負って弟の信州飯田藩主脇坂安政に預けられてことのようである。
この一件に景則もからんでいたのか申し開きが出来ず滋賀大津へ逃げてきた
と思われる。名前も変える必要もあり復姓したとも考えられます。毛利の殿さまが大津を通る時は毎回必ず召しだし、反物を渡したとされます。大禄を以て
仕官を勧めるが彼は「そのようなものは槍の先のしづくの如し」として受付なかったとされます。周防大島屋代村で死んだことになっていますので墓は極楽寺跡の大龍寺と思われますが墓石等が見当たりません。極楽寺跡の大龍寺のことは地元の人も知りませんので村上家の子孫の方も知らないでしょう。
現在、手入れのされていない蜜柑畑となっています。

ともあれ江戸でも政治的な動きが気になります。
by むーみん (2015-04-22 19:47) 

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