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虫明の事など [史料紹介]

小早川氏庶流の一つに裳懸(掛)氏があることはなんどか紹介して来ました。 その中でこの「裳懸」を当時はどう読んだのか、という点が気にかかっていたのですが、やはりこれは「裳懸(掛)」と書いて「むしあけ(げ)」と読むべき、であるのではないか、と取れる史料を紹介いただいたのでこれに触れつつ裳懸氏の諸々を追記してみます。

「虫明」と「裳懸」

そもそも「むしあけ」とは漢字では虫明、となります。 一方、裳懸とは備前国邑久郡に裳懸庄がかつて成立しており、また、ほぼ同じ場所を虫明とも称するということのようです。 江戸時代には「虫明」として岡山藩の重臣伊木氏の支配下にあったようで、現在は岡山県瀬戸内市の一部です。 住所表記としては邑久町虫明となっていますが、公共施設類を見ても、虫明郵便局である他は市の出張所、小学校、JAなどは裳掛を用いています。 旧裳掛村は虫明村、福谷村を合併して成立[1]していますので、必ずしもこの二つの地名が一致する訳ではないようです。 なお、由来としては虫明は海に光る夜光虫の明かりから、との説があり、一方、裳懸についても菅原道真に関わる「裳掛の松」の伝承が存在する[2]ようで、いずれの成り立ちからみても興味深いものがあります。

この裳懸庄に地頭として小早川氏が関わりを持ち、恐らくはその庶流が現地に入ったことで裳懸氏を名乗ったようです。 この所領は少なくとも応永7(1400)年までは小早川家の下にあったと思われます[3]が、戦国期には現地と小早川氏との直接的な関わりは失われていたと考えられます。 裳懸氏自体は小早川氏の本領付近で活動を続けており、これを「もか(が)け」ではなく「むしあけ(げ)」と読んだのではないか、という点については以下の資料をみていきます。

『陰徳太平記』

証、というには弱いものですが、筆者が最初に「むしあけ」読みを確認したのは吉川系の軍記物である『陰徳太平記』[4]です。 この巻70「諸将四国渡海付処々合戦之事」[5]に、四国攻めに際して深手を負った人物に「裳掛(ムシアケ)主水正(モントノカミ)」とルビがふられています。 ここで紹介した早稲田大学所蔵本がいつ時点のものかは不明ですが、古くより(あるいは当初より)「むしあけ」と紹介されていることが確認できます。

「村山家檀那帳」

筆者が確認した2例目は時代的にはこれより遡り、また、同時代に記載されたと思われる資料で、これは以前も取り上げたものです。 伊勢御師村山氏が毛利領国を廻った際にまとめた天正9年の檀那帳[6]に小早川氏の本拠地高山の檀那として以下の人名が見えます。

  • むしあけ宋(采)女殿
  • 同 六郎殿
  • むしあけ殿やく人也、山ワき二郎衛門尉殿

これは名乗りから裳懸采女允景利、裳懸六郎盛聡の両名であると言えるでしょう。

裳懸氏略系図

裳懸河内守―新右衛門―弥左衛門盛聡(高山主水)
     ―采女允景利

また、同じく村山家による資料「贈村山家返章」の中に諸家に関する記録がのこされていますが、家別にいろは順に並ぶ中、裳懸氏に関するものは「も」ではなく「む」の中に納められている[7]ことから、少なくとも御師村山氏には「むしあけ」と認識されていたことは間違いありません。 この資料には裳懸氏の系譜関係についても記載があり、そこに高山主水正(裳懸弥左衛門)の父新右衛門について「□ハスにて打死(□読めず)」との記載が見えています。 『陰徳記』に筑前立花城を巡る合戦で裳懸六郎が討死したと記載があることや、その直前の毛利氏による伊予出兵に新右衛門が派遣されていることを参考に、この地名とそれに関わる合戦を確認できれば新右衛門の死亡時期を把握することが可能となりそうです。

なお、以前の各稿で高山主水について江戸幕府の「寄合旗本」と紹介してしまいましたが、正確には寛政譜に「寄合に列する」とあるのみで年代的にも寄合旗本と扱うのは誤りかと思いますので訂正したいと思います。

『朝枝嘉右衛門聞書』

今回紹介いただいたものがこの『吉川家臣覚書』に納められた『朝枝嘉右衛門聞書』となります[8]。その経緯や詳細は下記サイトをご覧ください。

吉川家臣朝枝嘉右衛門が父である半兵衛からの聞書を残していたもので、成立は慶安あたりと思われます。 この中に下記の記載があるとのことです。

高山主水事
   ムジヤアゲ弥左衛門

高山主水は即ち裳懸弥左衛門ですので、「ムジヤアゲ」=「むしあけ」と認識されていたと言えそうです。 この箇所は意図不明ながら幾人かの小早川家臣の名前が挙げられています。

有田加賀守経道

本題からは外れて行きますが、今回『朝枝嘉右衛門聞書』の内容を掴んだのは、小早川家臣有田加賀守についての問い合わせをいただいたことに始まりました。 有田加賀守と聞いてピンと来る人は少ないと思われますが、この聞書にも記されている通り、跡を継いだ右京亮ともども伊予への使者としてたびたび活動していたことは同じく朝枝家に伝来した隆景書状などからも確認できます[9]。

そのような関係からこの人物を多く取り上げているのは主に伊予河野氏の研究者の方々です[10]。 論文では主に先の隆景書状から検証がなされていますが、この聞書では有田加賀守が伊予で河野家から100貫の知行を与えられていたこと、道後に逃れていた土佐天竺氏の娘を娶った事など、どこまでが事実かは別としてこれまで深く取り上げられていない内容も含んでいるようです。

 天竺飛騨守—女子
       |—有田半兵衛景進
某—有田加賀守経道
 —朝枝三郎左衛門—有田右京亮景勝

なお、『陰徳太平記』にはこの有田右京の死の場面も、巻74の「肥後国和仁邊春落城の事」において下記のように記されます[11]。

粟屋四郎兵衛朝枝右京亮ニ安国寺瓊西堂ヲ相添。 四千余ヲ差遣シテ攻シメラル。 城中ニ弓鉄砲ノ達者多カリケレバ。 透間無射出シケル程ニ。 朝枝右京真中射貫レテ失セニケリ。

ほぼ、聞書の通りと言えますが、有田ではなく朝枝として現れるところにむしろ聞書の内容が『陰徳太平記』にも採用された、と見て取る事もできそうです。

なお、余談が段々長くなる今回ですが、この聞書、実は『大日本史料』に一部が翻刻されていました[12]。 しかし、そこでは有田加賀守を「春元」と比定していますが、吉川家に属した別の朝枝加賀守春元でありこれは誤りです。 経道とは別人であることは「春」の文字からも明らかでしょう。

まとめ

小早川家臣裳懸氏の読みが「むしあけ(げ)」だったのではないか、ということで少なくとも2系統の史料から確認できることがわかりました。 元となる地名ではこの読みの混同が存在したのかは未確認であり、かつ、現代では少なくとも独立した読みとして存在していることは非常に不思議なところです。

また、出典元の一つ、吉川家臣朝枝氏は戦国期には小早川家臣有田氏の名跡を継いでいました。 これまでも有田氏が伊予との交渉に関わっていたことは知られていましたが、河野氏からの所領宛行や縁組の紹介なども伝えられていたようで、この点からも芸予交渉の実態がより明確になると面白いのではないでしょうか。

最後になりますが『戦国覚書』のといきんさんには情報提供いつもながらお世話になっております。 先日開催された「毛利隆元シンポジウム」の様子もレポートされています。 こちらも是非ご一読を。

注釈

  1. 邑久町の歴史
  2. 裳掛天満宮によると、道真が九州へ下る途中、松の木に雨に濡れた衣を乾かす為に掛けたとしています。
  3. 「小早川家文書」76 小早川仲好自筆譲状 応永7年2月9日(大日本古文書 家分け11)。又四郎弘景へ譲る所領の一つに「備前国裳懸庄」が挙げられています。
  4. 陰徳太平記. [首巻],巻第1-81(早稲田大学図書館古典籍データベース)
  5. 陰徳太平記 巻69-70 42コマ右ページ((4)に同じ)
  6. 山口県文書館所蔵「村山家檀那帳」天正9年村山檀那帳(『広島県史 古代中世資料編 5』、1980年)
  7. 『村山文書(原題:贈村山家返章)』(武)(東京大学史料編纂所所蔵史料DB
  8. 『吉川家臣覚書』「朝枝嘉右衛門聞書」(岩国徴古館蔵)(内容については『戦国覚書』「とある吉川家臣の遍歴(上)」より)
  9. 『吉川家中并寺社文書』年未詳4月3日 有田加賀守宛「小早川隆景書状写」、『村上文書』18 2月26日 元吉宛 「小早川隆景書状」(『宮窪町史』)
  10. 川岡勉『永禄期の河野氏権力と芸州 -小早川氏による検使の派遣』(『地域創成研究年報』巻2、2007年)、西尾和美『戦国期の権力と婚姻』「第5章 戦国末期における芸予関係と河野氏大方の権力」など
  11. 陰徳太平記 巻73-74 58コマ左ページ((4)に同じ)
  12. 『吉川家臣覚書』(『大日本史料』11編11冊381頁 天正12年雑載)

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コメント 6

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wawa

はじめまして。虫明出身者です。
わたしが子どもの頃、聞かされた伝承では、「裳掛(もかけ)」の語源は、弘法大師(空海)が衣を洗い、岩に掛けて乾かしたからだと聞きました。「裳掛岩」といわれる岩が海岸ぎわにあると聞いていました。地元の寺の井戸の水が、そのせいである時期になると濁るという話も聞いたような…。
地元では、裳掛は、虫明地区と福谷地区を合わせた全部をさす時に使ってい
ます。村の合併の時から、使っているのでは、ないでしょうか。
戦国時代に、ここをおさめていたのは「虫明氏」です。全国の虫明さんは子孫だそうです。
by wawa (2014-02-17 21:54) 

虫明

wawaさんの虫明氏の話をもっと聞きたいです。岡山県浅口市金光町出身の虫明です。金光町地頭下には虫明の血族が集中して居ます。金光町では虫明という名前に出会うこともありますが、他の地域ではまだ出会ったことがありません。
by 虫明 (2014-08-03 15:37) 

wawa

実家に邑久郡史(昭和28年発刊)がありました。
中に ”虫明城には虫明四郎左衛門藤原正之居城し、其子蔵人正直襲城せしが、文明年中福岡籠城の中に裳掛伊賀守と云ものあり、蔵人の父ならんか。天正元年宇喜多直家に没収せらる。(古記)”とありました。裳掛のルビは、「むしあけ」でした。
また、”城主虫明蔵人(浦上宗景の臣)は虫明、佐山、鶴海三村の主なり、右大臣頼朝公の時代より領して廿八代続くよし、末孫今に有。(黄薇雑録)”とも。

by wawa (2015-03-14 02:01) 

64蛍

 私も虫明です。いまは埼玉県に居住していますが、ご先祖をたどると高祖父は岡山県浅口市(旧鴨方町)の人でした。残念ながら、その先はうまくたどれません。「裳掛=虫明」という読みは初めて伺いました。私は今年、古希となりますが、機会があればもう少しルーツ探しをしてみようかと考えています。つまらないコメントで申し訳ありません。とても興味深い話でした。ありがとうございます。
by 64蛍 (2016-03-09 18:24) 

金光町出身の虫明

ルーツに興味が湧き、邑久町まで出向き「邑久町史」(これは岡山県の公立図書館には大抵置いてあるそうです。国会図書館にもあるようです)を読み、虫明焼の展示も見学、邑久町虫明まで2回出かけて行き、JA裏のお墓や、虫明焼窯所、役所、天理教を訪ねてみました。現在、邑久町虫明には虫明さんはいないそうです。私の疑問は、虫明一族はどこへ行ったのかということです。「虫明」には金光教に帰依している人が多かったと書いてあったので、宇喜多氏が徳川に敗れたときに主を失った虫明一族は金光町近辺に移動したのではないか、或いは娘の嫁ぎ先を頼って金光町付近に移動したのかと推測しているのですが、古いことなので判る人がいません。金光町の金光教にも電話してみたのですが。どなたか判る方、コメントをお願いします。
by 金光町出身の虫明 (2017-05-20 20:11) 

金光町出身の虫明

訪ねたのは虫明の天理教ではなく、金光教でした。間違いです。
by 金光町出身の虫明 (2017-05-23 18:16) 

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