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井上春忠伝(下) [人物]

前回に続いて小早川隆景家臣、井上春忠についてみてみます。 ここでは伯耆守の官途と、それに関連して大徳寺の玉仲和尚の関わりに注目します。

伯耆守春忠

井上春忠が伯耆守を名乗ったことは確かであると言えそうですが、それは非常に短い期間でのみ確認できます。 実際には又右衛門尉を永く用いており、各種史料に井上又右衛門、「井又右」の文字が現れます。

村井良介氏の調査[1]では伯耆守の初出は以下の史料となるようです。

  • 「糸崎神社文書」(慶長元カ)6月18日 小早川氏奉行人連署制札 [2]

一方、同じ調査で又右衛門尉を用いている最後のものは以下となります。

  • 「法常寺文書」 文禄2年11月17日 小早川氏奉行人連署書状 [3]

ここから文禄2年末頃から慶長元年の間に伯耆守と改めたと考えられます。 以前、小早川隆景の清華成に関連して、近世に残された諸大夫成をしたと伝わる8名について取り上げました。 この時、全く比定できる人物が見当たらなかったのが、粟屋左馬、井上左京の2名です。 ただ、その左馬、左京という官職名を無視すれば、彼らに比定し得るのは粟屋盛忠、景雄親子、井上春忠、景貞親子それぞれのいずれかであろうことは間違いないかと思います。 そして、この又右衛門尉から伯耆守への変化が諸大夫成によるものであるとした場合には、文禄5年5月の小早川隆景の清華成に伴うものという仮定を上記の史料残存状況は満たしていると言えそうです。 粟屋氏についても、先の村井氏による調査では粟屋盛忠が河内守を用いている記録が1件のみ挙げられますが、これは上記「糸崎神社文書」の制札に春忠らと連署しているものでこちらも時期が整合します。

福岡に残る足跡

その後各種資料を見る中で、村井氏の調査後に刊行された『福岡市史』に2つの興味深い史料が掲載されていることに気づきました。

  • (A)「志賀海神社文書」 文禄3年5月10日 小早川氏家臣連署打渡状案[4]
  • (B)「松本家文書」文禄3年甲午仲春彼岸日 井上春忠事跡書写[5]

(A)は伯耆守春忠が、桂宮内少輔、手嶋東市助、鵜飼新右衛門尉と連署しているもの(ただし案文)であり、(B)は春忠の系統が養子に入ったと伝える福岡藩舟手、松本家に伝わるものです。

(A)に関しては案となっているのは、花押がないためかと思われますが、10日後の高尾、宗近からの文書(C)[6]で伝達されている打渡しに対応する文案と解釈されているようです。 ただ、正規の打渡状が伝わらず、本来入手され得ないと思われるものが残るというのは不思議な状態ではないかと思われます。

(A)について、敢えてこれらが本物でない可能性を考察してみます。 高尾、宗近の両名は隆景の三原引退後も筑前で宗像郡に残る隆景領に関する行政に当たっていた人物として知られます。 このため、その発給文書は時間的にも長期に渡って作成されたと思われます。

志賀海神社に残る(C)の文書には宛所が欠けているようであり、「鹿嶋(志賀島)之内五拾石」の記述はあるものの、必ずしも志賀海神社宛のものとは言えません。 また、これが志賀海神社宛のものであってもそれに対応する(A)が「作成」された可能性はあるのではないでしょうか。 これらの文書は小早川時代の権利を証明するものと言えます。 関ケ原合戦後の黒田家による筑前支配にあたり、在地の勢力にとっては小早川隆景による発給文書が一定の意味を持っていたと思うのですが、どうでしょうか。

もう一点の(B)については、書写とあることからいずれかに原本が存在したと言うことになります。 その冒頭は「芸州之住藤原井上伯耆守者」で始まっており、また、末尾は「文禄三歳甲午仲春彼岸日 前龍宝玉仲子宗繙湯山光澰山書」で終わっています。

その記述から、春忠は文禄3年には既に伯耆守を称するようになっていたということになります。 先の法常寺文書と合わせ、時期から言っても朝鮮出兵に関わって、帰国後の任官の可能性はあるでしょうか。

大徳寺玉仲宗琇

先の(B)にある前龍宝玉仲とは小早川隆景が深く帰依した大徳寺112世の玉仲宗琇の事です。 玉仲和尚と縁の深い黄梅院には隆景の墓を始め、今も毛利家、小早川家関係のものが多く残るようです。

現在、三原市の米山寺に残る「絹本著色小早川隆景像」は(B)と同じく文禄3年に玉仲和尚が賛を記している小早川隆景の画像です[7]。 こちらの記載には「菊秋初七日」とありますので、春忠の事跡が半年ばかり先んじて作成されたということになるのでしょうか。

また、関が原合戦後、宗瑞を名乗る毛利輝元ですが、この法号も実は玉仲和尚から与えられています。 毛利家の記録には慶長5年10月19日に粟屋景雄が使者となり、玉仲和尚の元へ向かったことが記録に残っているようです[8]。 輝元の側近ではなく、やはり隆景遺臣であり春忠の外孫でもある景雄が使者にたったのは不思議な事にも思えます。 結果論ではあるものの、この後、1年と経たずに粟屋景雄のみならず井上春忠、景貞父子も出奔するわけですが、玉仲和尚との間には輝元自身よりも隆景を通した関係が深かったことを示しているのでしょうか。

春忠の真実

残された事跡の内容に着目すると「紹忍」「一閑」の文字が見えますが、三原に建てられた春忠の墓には「一閑紹忍居士」と記されます。 また、少なくとも「紹忍」は慶長2(1597)年、隆景死後に提出された起請文[9]でも用いられており、春忠がこれを使ったことは間違いありません。

ただし、ここでも春忠を藤原氏としており、意図的に藤原を用いていたことがあったのか、後世の誤認による偽作であるのか、いずれかとなります。 陣鐘の銘文でも藤原氏とあることから、松本家に入った人物も三原に関わりをもつものであるのでしょうか。 仮定するならば、米山寺に残る隆景肖像画を目にすることが出来た人物にはこの事跡を後世に書き起こすことは可能と言えそうです。

まとめ

井上春忠が用いた「伯耆守」に関連して、大徳寺の玉仲和尚や、毛利輝元との関係も含め取り上げてみました。 ただし、今回、取り上げた福岡に残る2つの資料については、それぞれ全く別の切り口を持つ物ですが、いずれも後世のものである可能性もあるのではないかと個人的には考えてみました。

注釈

  1. 村井良介「芸備国衆家臣団一覧」(『市大日本史』2号、1999年)
  2. 「糸崎神社文書」1 小早川氏奉行人連署制札(『広島県史 古代中世資料編4』)。井上伯耆守、鵜飼新右衛門尉、粟屋河内守が連署。
  3. 「法常寺文書」2 小早川氏奉行人連署書状 (『広島県史 古代中世資料編4』)。井上又右衛門尉、包久内蔵丞、鵜飼新右衛門尉が連署。
  4. 「志賀海神社文書」15 小早川氏家臣連署打渡状案(『新修福岡市史 資料編 中世1』)。桂宮内少輔、手嶋東市助、鵜飼新右衛門尉、井上伯耆守が連署。
  5. 「松本家文書」25 井上春忠事跡書写(『新修福岡市史 資料編 中世1』)
  6. 「志賀海神社文書」16 小早川氏家臣連署状(『新修福岡市史 資料編 中世1』)。(高尾)盛吉、(宗近)長勝が連署。
  7. 三原市米山寺蔵「絹本著色小早川隆景像」(東京大学史料編纂所公開用データベース
  8. 『毛利三代実録』慶長5年10月19日条(『毛利三代実録考証』によれば「御系譜引書」による)(『山口県史 資料編 近世1上•下』)

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