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長府椋梨氏の系譜 [史料紹介]

残る開催期間は本日1日となりましたが、3月15日までの間、下関市の長府博物館において、 下関市合併10周年記念企画展示「下関の毛利氏-元就庶子の系譜」 が開催されています。

主に現下関市の多くを所領とした長府毛利家の他、関わりの深い諸氏の史料が展示されていますが、この中に長府毛利家と関わりを持つ小早川一族椋梨氏に関連するものが含まれています。

椋梨又九郎と太郎衛門

これらは今回初めて公開されたもので下記の2点が該当します。

  • 小早川隆景書状 椋梨又九郎宛 天文24年4月28日付
  • 毛利秀元知行宛行状 椋梨太郎左衛門宛 慶長7年12月13日付

椋梨氏は小早川氏のうち、沼田新庄を領した有力庶家として続いて来ました。 その本家は萩藩士として続いた家と考えられますが、この辺りを含め、各椋梨氏との詳細な関係は現状不明なままといえそうです。 長府藩士にも椋梨氏がおり上記二通の文書はいずれもそこに関連したものと考えられます。

展示解説によれば、天文24年の書状は野間氏の城である矢野保木での合戦に際しての感状であるとのことでした。 また、太郎左衛門宛の宛行状については拾石を豊東郡内日郷において秀元が宛行したものとなっています。 この又九郎と太郎左衛門について考えてみます。

分限帳から

まず、長府藩の分限帳を確認してみます。 藩政初期の分限帳の記載を確認すると以下のようになります[1]。

分限帳年限   名前     禄高(石)
元和元(1615)以前椋梨作兵衛  80
        椋梨与次衛門 40
元和5(1619)  椋梨太郎左衛門40
寛永15(1638)  該当なし    
正保4(1644)  椋梨作兵衛  80
        椋梨与次衛門 50

元和以前とされたものは恐らくは大坂での戦死者が含まれているためにそう理解されたものと推測しますが、実際には後述の系譜からみても太郎左衛門と作兵衛の現れ方からは年代が逆なのではないかともみえます。 今回公開された宛行状の太郎左衛門と上記分限帳の太郎左衛門は同一人物かそれに近い人物となりそうです。

系譜

系譜については『藩中略譜』[2]に記されている椋梨家の系譜を確認します。 現地の展示でも清房、又九郎兄弟迄の系譜が掲示されていました。 以下に『藩中略譜』にみえる椋梨氏系譜を会場に展示されていたさらに1代先迄示します。 実際には、作兵衛、喜左衛門、兵左衛門の3家についてはその後も記載が続いています。

『藩中略譜』による椋梨氏系図(一部まとめ)

※1  ※2   ※3
上野介—上総介—清房—作兵衛
          —惣兵衛(遠山氏)
          —喜左衛門
          —兵左衛門
          —勘左衛門
       —又九郎
  • ※1:父は常陸介朝平。
  • ※2:太郎左衛門
  • ※3:内吉、太郎左衛門

父を常陸介朝平とある初代上野介は本家盛平の兄弟にあたると考えられ、その実名は清平であることが伊勢御師村山氏の記録から確認できます[3]。 今回の公開史料については、又九郎宛の感状は清平を盛平の兄弟とみた場合、弘平が天文21、22年頃に藤次郎から治部少輔へと改めている[4]ことを考えれば世代的には上野介の代に近く、この天文24年の又九郎は上総介と同一人物であるとも考えられそうです。 また、宛行を受けた太郎左衛門は上総介、清房と2名のうち、逆に清房の方が年代が合う可能性が高いと言えるのではないでしょうか。

また、『藩中略譜』では分限帳にあった与次衛門を確認できませんが『村山檀那帳』の明暦3年分に椋梨氏の系譜についての記載があります[5]。 そこには作兵衛の従兄弟として与次右衛門が記されており、それを整理すると下記のようになりますが、従兄弟という関係の具体的な点については不明です。

椋梨与次右衛門 —興右衛門
        —三郎四郎
        —萩喜八郎
        —源二郎

同檀那帳の記載からは作兵衛、与次右衛門いずれも長府藩士と考えられることから、当初長府藩には2系統の椋梨氏があったようです。

まとめ

長府藩椋梨氏について確認できる範囲でまとめてみましたが、調査不足と史料の少なさから不十分なものとなりました。 この他、椋梨氏としては小早川秀包(吉敷毛利氏)家臣、福原氏家臣、肥後細川氏家臣などを確認することができ、これらを含めた史料の整理や解明が進む事を期待したいところです。

注釈

  1. 藤村直『長府藩分限帳』(史料叢書29、長府図書館蔵、1987年、原書は1968年)
  2. 『藩中略譜』第3巻 「椋梨」の項(山口県文書館所蔵)
  3. 『贈村山家返章』79 村山旦那帳(『広島県史 古代中世資料編 5』、1980年)、『村山文書(原題:贈村山家返章)』(武)(東京大学史料編纂所所蔵史料DB
  4. 村井良介「芸備国衆家臣団一覧」(『市大日本史』2号、1999年)によると天文22年の8〜9月に藤次郎宛と治部少輔宛が混在しているため、この時期に改めたと思われます。
  5. 『村山家旦那帳』明暦3年分(山口県文書館所蔵)

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コメント 1

コメントの受付は締め切りました
むーみん

毛利家の大身でありながら、椋梨家は不明なことの多い家ですね。

本家の小早川家が断絶したあと、毛利家に仕えますが、これ以降
椋梨家の本家筋は萩藩寄組(448石)で幕末は養子の椋梨藤太が
当主と思われます。

現在、NHKの「花燃ゆ」では吉田松陰を罵倒し松下村塾を見下す、藩校明倫館支配の人物で登場しますね。
所謂、彼は守旧「俗論派」で後に高杉晋作らに藩論を統一され、萩を逃げ出し
岩国経由で石州に逃れますが、捕まります。萩で斬死になり、同時に家格
没収までされますから、不名誉なこと限りなしとなります。
時は慶應元年閏五月二十八日とされます。

直系ではないとは言え、小早川秀秋の裏切りで防長二州に押し込められた
原因家の庶家であること、高杉晋作、伊藤博文らと敵対した家として、記録
等がきちんと整理されていないのかもしれませんね。

長府藩の椋梨家は毛利秀元時代の分限帳に記録されているのであれば
小早川隆景に仕えた本家の椋梨家ではなく分家の椋梨家のようですね。

椋梨常陸介盛平か、その子椋梨弘平(藤次郎・冶部少輔)の兄弟が上総介かも知れません。

ただ、萩藩の椋梨系図は伝記のようであり誤伝が多いともされていますのではっきりしたことは分りません。椋梨の本家である小早川系図とも代数等で
整合性がとれないのも不思議です。

萩藩譜録は江戸中期以降の申告系図なので、玉石混交ではあります。

本藩・支藩を含め、同じ士族の中で婚姻を繰り返していますから、他家も文書を拾うことにより史実に近づけるとは思いますが・・・・・。
by むーみん (2015-03-19 01:12) 

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