前号に引き続いて、356号に掲載された後編[1]を読んでみました。 この後半部では重見氏の動向と飯盛城合戦が取り上げられていますが、特に前半の重見氏に関する動静に注目したいと思いますのでまずは飯盛城合戦から見て行きます。

飯盛城での戦い

飯森城は宇和郡北部、三崎半島の付け根近くに位置し(現八幡浜市保内町)、伊予灘と宇和海の双方をにらむ位置にある城郭です。 この城へ大友氏は元亀3(1572)年7月に軍勢を派遣したようで、豊後側の史料からは、佐伯惟教を始めとして、鶴原宗叱、若林鎮興ら大友氏の警固衆を中心とした勢力が侵攻していたことがわかるとのことです。

この合戦について従来は「大友家文書録」の綱文などにより、一条氏を支援するため、西園寺氏を攻めたものと解されていたようですが、近年、松原勝也氏により毛利氏と大友氏ら反毛利勢力との戦いのひとつではないかという点が提起され[2]、一条氏の支援ではなく、当時反毛利親大友の立場にあった能島支援ではないかと考えられていることが紹介されています。 さらに、そうした主張を受けつつ山内氏はむしろこれを能島支援ではなく、宇都宮氏の残党問題に関わる出兵ではないかという可能性を提起されています。

ただ、史料の無さもあってか、山内氏も伊予側の状況については触れられてはおらず、当時の飯盛城がどの勢力下にあり、誰が守将であったかなどははっきりしないということでしょうか。 先の松原氏は『大友興廃記』に「いずみ(出海)、いさき(磯崎)」の衆が拠っていたと書かれていることが紹介されていますが、一次史料と言えるものはないようです。

この飯盛城での戦いの帰趨やその影響自体は詳らかではありませんが、これと前後して元亀2年の冬から大友氏が能島来島両氏の和睦を計っていたことも合わせて取り上げられています。 この和睦は飯盛城合戦の少し後、元亀3年10月頃にはまとまったのではないかとのことですが、この辺りの見解についても山内氏と松原氏の間で異なるようです。

重見衆の活動

続いて、重見氏の動きですが、まず冒頭で、近年川岡勉氏が取り上げた[3]、「重見表」の言葉が見える有田加賀守宛の4月3日付小早川隆景書状が紹介されています。 有田加賀守(経道)は使者などの役を負って度々伊予に渡海したことが知られており、この書状の年代比定としては、川岡勉氏は永禄11年、中平景介氏[4]や山内氏は元亀3年という立場に別れているようです。

この隆景書状では他にも大津への番衆の話題とそれに絡んで豊綱・大野の名前があがるほか、平岡衆、来島衆、垣賀(垣生加賀守)、村越(村上越後守)といった河野氏側の勢力や道後の局(河野通直母、宍戸隆家娘)の動静も伺い知ることができるものです。

「重見表」については平岡氏が兵を出している他、同じく書状に現れる「両方新山」についても山内氏は重見氏の動きに関連あるものと捉えられており、それを他の書状に現れる伊予の「生楚」「甲」ではないかとされています。

「生楚」「甲」の攻略には毛利氏からも口羽通良、穂田元清らが派遣されていたことがそれぞれの書状の記述からわかるとのことです。 「生楚要害」の守将は栗田監物丞[5]で、毛利軍はこの城の攻略にも成功しているようです。 口羽通良書状にはこの攻防が豊州(豊後)への牽制になったであろうことが記されているとのことですが、重見氏の動きを大友氏に通じてのものではないかと山内氏は述べられています。

同じく「生楚」への言及が紹介されている林甲斐守宛の隆景書状[6]は3月28日付けです。 その内容は、それ以前に甲斐守の子と思われる式部丞が生楚で討ち死にし、その弟能助も時期は不明ながら日名井で討ち死にしており、その残された老親を気遣ったものとなっています。 ところで、能助が討ち死にしたとある「日名井」は能島衆の拠点も存在した武志島の対岸に位置する火内[7]を指すものでしょうか。 であれば兄弟が伊予での戦乱で亡くなったことになります。

ところで肝心な「生楚」「甲」の両所についての史料はないようで、読み方も場所も不明であると山内氏はされています。 関連が考えられる「重見表」については有田加賀守宛の書状を最初に取り上げた川岡氏は道後平野南西部から山間部にかけての位置、あるいは中平氏は大友氏との関係やその前後の喜多郡を巡る攻防から喜多郡と捉えられています。

「生楚」について

先に書いたように山内氏は「生楚」「甲」の位置について読み方もその位置も不明であると述べられていますが、ここからは私独自の考察を進めてみたいと思います。 まず山内氏が取り上げたもの以外の史料で「生楚」と思われるものが現れるものを取り上げます。

『藩中略譜』は長府藩の家臣団の系譜集ですが、同書の村上氏の項[8]には能島系、来島系の2つの系譜が掲載されています。 そのうち能島系は村上雅房の孫として吉長が秀元に召し出されたとする系図となっており、この中に「生楚」と思われる場所が現れます。 雅房の子、某について源七郎、生伊曽(オイソ)城主とし、土佐で正月森城主波多野氏と戦い討ち死に、その際、桧垣助三郎が首を通康本陣に持ち帰るとしています。 源七郎の次弟三郎九郎についても源七郎の死後、甥の次郎右衛門(吉長)を後見し、生伊曽、ついで石城に在城したとあります。

漢字は異なりますが「生伊曽」=「生楚」と考えてよいのではないかと思いますが、この城は村上一族の居城であると伝わっていることになります。 土佐とされる正月森について、川岡氏が取り上げられている[9]ように、永禄10年の鳥坂合戦において村上吉継が布陣した場所であり、ここで土佐勢と戦ったようですので、あるいはこの時に源七郎は討ち死にし、土佐勢との戦いが誤って土佐での戦いと伝わった可能性が高いのではないでしょうか。 また、鳥坂合戦との関係などからもこの系統も実際には来島系に近い様子が伺えます。

生楚城はどこか

続いて、具体的な生楚城の候補地として越智郡にある老曽城を挙げたいと思います。 この城は現在の今治市高橋、蒼社川の左岸に位置し、高縄山系から今治平野に抜けるルートを抑える場所にある城と言えます。

近世の地誌類によれば[10]、城主は当初村上監物重茂。 この監物が河野氏に逆らったため、城代として栗山将監、桧垣四郎(右)衛門が置かれたとされています。 重見氏との直接の関係は見えず、またもう一城である「甲」に比定し得る城も近隣に見当たりません。

「老曽」は「オイソ」と読むことはできますし[11]、伝承からも何らかの騒乱の舞台となった可能性は高そうです。 先の「生楚」の守将として現れた栗田(上)「監物」允と河野氏に逆らった村上「監物」、あるいは来島家臣とも考えられる城代とされる桧垣氏の名など「生伊曽」城主村上氏の伝とも部分的に一致するものが見られるとも言えるのではないでしょうか。

ただ、永禄10年の鳥坂合戦で討ち死にしたと思われる「生伊曽」城主村上源七郎の所伝と元亀3年の「生楚」を巡る戦いの間で、同城が「生楚」であったとしてもどのような勢力が籠っていたかをはっきりさせるには至りません。

まとめ

山内譲氏の論考から現在知られている元亀年間の伊予の状況の一部を紹介してみました。 近年まで飯盛城の合戦も通説のまま解釈され、「生楚」の戦いについてもこれまでほとんど注目も取り上げられることもなかったのではないかと思いますが、このあたりに伊予の戦国時代の解明具合が伺えます。 また、この戦いを重見氏が関与したものと山内氏は捕らえられていますが、この重見氏については平岡氏や来島村上氏とはまた違った意味で戦国期のその動向が掴み難い一族のように思います。

後半では独自にこの「生楚」について『藩中略譜』の記述に依って、村上氏の一流が城主を務めていたと主張する「生伊曽(オイソ)城」と同一ではないかと考え、その具体的な場所を越智郡内陸部の老曽城と考えてみました。 重見氏との関係もはっきり見えず、九州への影響を考えた際に越智郡内陸に位置する「老曽城」がそのような意味を持ち得たのかどうかは疑問も残るところであるのも確かですが、ここでは一つの候補地として挙げてみたいと思います。

注釈

  1. 山内譲「元亀年間における来島村上氏と河野氏(下)」(『伊予史談』356号、2010年)
  2. 松原勝也「元亀年間における大友氏の政治的・軍事的動向-元亀三年伊予出兵の検討を中心として-」(『大分県地方史』194号、2005年)
  3. 川岡勉「永禄期の河野氏権力と芸州-小早川氏による検使の派遣-」(『地域創成研究年報』2号、2007年)
  4. 中平景介「元亀年間の伊予-来島村上氏の離反と芸予交渉-」(『四国中世史研究』10号、2009年)
  5. 山内氏論文の注にある該当書状の翻刻された本文では「栗上監物允」となっています。河野氏の重臣として府中との関係も知られる栗上氏でも不思議はないように思えますがどちらが正でしょうか。
  6. 「林善右衛門氏所蔵文書」3月28日 林甲斐守宛 小早川隆景書状(『広島県史』中世資料編4、1978年)
  7. 『角川日本地名大辞典 愛媛県』「火内鼻」の項には同所に村上水軍の砦があったと書かれています(角川書店、1981年)
  8. 『藩中略譜』村上氏の項(山口県文書館所蔵)
  9. 川岡勉「永禄期の南伊予の戦乱をめぐる一考察」(『愛媛大学教育学部紀要. 第2部, 人文・社会科学』、2004年)
  10. 長山源雄『伊予の古城跡』(伊予史談会双書 第4集、改訂版1993年)老曽城の項掲載の各種地誌の記述
  11. 『日本歴史地名大系 愛媛県の地名』(平凡社、1980年)では老曽城の項に「ろうそ」と読みを充てています。

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